御心に寄り添うお寺

洞泉寺の歴史

  • 2020.11.13

祈り続けて700余年 古伝によりますと洞泉寺は1313年に豊田市保見町の霞渓(かけい)という地で開山されたということです。山号である「霞渓山」は地名からきており「洞泉寺」の名は文字通り付近に清らかな泉が湧くお洞があったとのことです。現在洞泉寺はは総本山京都知恩院直末寺院の浄土宗ですが、開山当初は法相宗の寺院として発足し、後には天台宗に改宗されました。1468年頃に、関東の名刹弘経寺の開山である嘆譽上人のお弟子様がお念仏を広める為に当地を訪れたのを機に現在の浄土宗に改められて、今もお念仏の教えが受け継がれています。 挙母の街に 浄土宗へ改宗後まもなく挙母の地「夏焼」(現在の小坂本町付近)に移転され隆盛しまして、桜城が築城されるのを機に桜町に移転しましたが矢作川の度重なる水害により城、洞泉寺ともに被害を被っておりました。 1660年頃桜城の代わりに挙母城(七州城)が高台に築城されるのを機に当時の挙母藩の城主であられました内藤学文候の支援を得て洞泉寺も合せて現在の小坂町の地に広大な敷地を賜り、移転することとなったといわれております。 700年の歴史を積み重ねた洞泉寺は開山上人、内藤家のお殿様 […]

洞泉寺内藤家墓所

  • 2020.06.09

挙母藩と内藤家 挙母藩とは旧三河国の北西部、現在の愛知県豊田市中心部を治めた2万石の大名の藩であり、藩庁は挙母城、別名七州城とも呼ばれております。挙母藩は1604年の三宅家から1871年の内藤家まで237年間11代の歴史があり、洞泉寺とご縁のある内藤家は1749年から7代にわたって徳川幕府終焉の明治維新まで挙母藩の殿様として勤められました。 内藤家と洞泉寺 内藤家が挙母藩に入封された頃、桜城(現在の元城町)城下町の蔵前に洞泉寺があったのをご縁に内藤家の菩提寺となりました。入封当時は陣屋(藩庁が置かれた屋敷)だっため、挙母城築城の計画が進められていました。しかし矢作川の度重なる洪水、一揆、政争などの要因もあり進みませんでした。そこで第2代藩主の内藤学文が安永8年(1779年)に挙母城の移転を決意され、挙母城より西の高台にある樹木台に新しい城の築城を進め、お城の移転と共に菩提寺である洞泉寺も小坂町の現在地に移りました。そして天明5年(1785年)に築城され、現在「七州城」と呼ばれる城となりました。これは「三河国」「尾張国」「美濃国」「信濃国」「伊賀国」「伊勢国」「近江国」の7つの国が見える […]

祈り続けて700余年、洞泉寺。

  • 2020.04.24

洞泉寺沿革 霞渓山紫雲院洞泉寺と号し、浄土宗総本山知恩院の直末にして、末寺十四ヶ寺を有す。古伝に依れば、正和2年(1313) 霞渓(市内保見町)の地に法相宗の寺院として発足、後に天台宗に改宗。建武の兵乱により一時衰微するも、正長永亨年間に復興。応仁2年(1468)念佛弘通のため、諸州行脚中の廓譽上人(関東の名刹飯沼の弘経寺開山嘆譽上人の高弟)が、里人の懇請により浄土宗に改宗、まもなく衣の郷、夏焼(市内小坂本町)に移築。萬治3年(1660)11世本譽上人、挙母城の西北の地(市内桜町)に移し、天明5年(1785)19世本譽上人、度重なる矢作川の水害を避くべく、城主内藤学文候の支援を得て、現在の地に移築された。 洞泉寺は1313年に開創されて、今年で707年の歴史を辿っております。浄土宗総本山京都知恩院の直末寺院として隆盛を誇り、また信州長野善光寺の別院として本堂内には一光三尊如来をご安置し、その下には戒壇巡りも備え毎年正月七日の法要にご開帳させていただいております。 住職は開祖の廓譽上人より数えて、現在は第30代目の住職となります。 1700年代当山19世住職の頃、挙母城の西北(現在の桜町 […]