洞泉寺内藤家墓所

洞泉寺内藤家墓所

挙母藩と内藤家

挙母藩とは旧三河国の北西部、現在の愛知県豊田市中心部を治めた2万石の大名の藩であり、藩庁は挙母城、別名七州城とも呼ばれております。
挙母藩は1604年の三宅家から1871年の内藤家まで237年間11代の歴史があり、洞泉寺とご縁のある内藤家は1749年から7代にわたって徳川幕府終焉の明治維新まで挙母藩の殿様として勤められました。

内藤家と洞泉寺

内藤家が挙母藩に入封された頃、桜城(現在の元城町)城下町の蔵前に洞泉寺があったのをご縁に内藤家の菩提寺となりました。
入封当時は陣屋(藩庁が置かれた屋敷)だっため、挙母城築城の計画が進められていました。
しかし矢作川の度重なる洪水、一揆、政争などの要因もあり進みませんでした。
そこで第2代藩主の内藤学文が安永8年(1779年)に挙母城の移転を決意され、挙母城より西の高台にある樹木台に新しい城の築城を進め、お城の移転と共に菩提寺である洞泉寺も小坂町の現在地に移りました。
そして天明5年(1785年)に築城され、現在「七州城」と呼ばれる城となりました。
これは「三河国」「尾張国」「美濃国」「信濃国」「伊賀国」「伊勢国」「近江国」の7つの国が見える高台にあることから、「七州城」と呼ばれたそうです。
挙母の城下町は旧城を中心とした下町と新城を中心とした樹木の両地域で発展し、明治維新を迎えました。

洞泉寺内藤家墓所


明治維新を7代目の殿様として迎えた内藤文成は明治7年に養子の内藤政共に代を譲ってから、童子山のお城のあった一角の別邸(今の豊田市美術館の辺り)に隠居され、明治34年に亡くなるまで挙母で過ごされました。
内藤文成をはじめ洞泉寺の墓地には内藤家歴代の中で挙母の地でお亡くなりになった方が葬られており、洞泉寺の墓地は豊田市の史跡に指定されております。