祈り続けて700余年、洞泉寺。

祈り続けて700余年、洞泉寺。

洞泉寺沿革

霞渓山紫雲院洞泉寺と号し、浄土宗総本山知恩院の直末にして、末寺十四ヶ寺を有す。
古伝に依れば、正和2年(1313) 霞渓(市内保見町)の地に法相宗の寺院として発足、後に天台宗に改宗。
建武の兵乱により一時衰微するも、正長永亨年間に復興。
応仁2年(1468)念佛弘通のため、諸州行脚中の廓譽上人(関東の名刹飯沼の弘経寺開山嘆譽上人の高弟)が、里人の懇請により浄土宗に改宗、まもなく衣の郷、夏焼(市内小坂本町)に移築。
萬治3年(1660)11世本譽上人、挙母城の西北の地(市内桜町)に移し、天明5年(1785)19世本譽上人、度重なる矢作川の水害を避くべく、城主内藤学文候の支援を得て、現在の地に移築された。

洞泉寺は1313年に開創されて、今年で707年の歴史を辿っております。
浄土宗総本山京都知恩院の直末寺院として隆盛を誇り、また信州長野善光寺の別院として本堂内には一光三尊如来をご安置し、その下には戒壇巡りも備え毎年正月七日の法要にご開帳させていただいております。

住職は開祖の廓譽上人より数えて、現在は第30代目の住職となります。

1700年代当山19世住職の頃、挙母城の西北(現在の桜町付近)の地に洞泉寺はありましたが、当時は矢作川が氾濫する水害が頻発し、地域は大きな被害を何度も被っておりました。
そこで当時の挙母藩主内藤学文(さとふみ)候が矢作川の改修に尽力され、併せて洞泉寺の移転、移築にもご支援くださいました。

現在の地に移転した当初は約3万坪の面積があったということで内藤家のお力に敬服するばかりです。
しかし戦後の農地解放など社会の激変で洞泉寺の規模は次第に縮小されてしまいました。
それでも約1万坪の広大な敷地が現在でもあり、境内地には挙母藩内藤家墓所、各種永代供養墓、一般墓地、500台を収容可能な駐車場、洞泉寺別院紫雲閣などがございます。

内藤家のおかげにより今の洞泉寺があるのはもちろん、お檀家様や信徒様、地域の皆様方の変わらぬお力添えを頂いているおかげでこれだけの規模を誇るお寺として地域の皆様方の拠り所となっております。